SNSは人類に富をもたらしたのか——「実験」から「淘汰」まで、ある議論の記録

Thinking

暇つぶしに、AIと議論をした。お題は「人類にとってSNSは、差し引きでプラスだったか、マイナスだったか」。私はプラス派、AIはマイナス派。役割を決めて、とことんやってみた。

正直、最初は退屈なテーマだと思っていた。マイナス派が最初に出してくるのは、たいてい「SNSのビジネスモデルは注意の搾取だ」という、よく聞く話だ。滞在時間がどうとか、広告がどうとか。それ自体は否定しないけれど、面白くはない。

そこで、土俵を一段上げてみた。SNSの価値は、便利さや楽しさにあるんじゃない。人類という種を、全員まとめて相互接続したら何が起きるのか——それを人類史で初めて観測できた、巨大な実験としての知見にある。そう言い換えた瞬間から、話は思っていたよりずっと遠くまで転がっていった。

以下は、その思考が一段ずつ深くなっていった記録だ。論点が順番に折り重なっていくので、ゆっくり追ってみてほしい。


第一部:問いは一段ずつ深くなる

「実験だから価値がある」は、本当か

出発点はシンプルだ。「SNSは、実験結果という富をもたらした」。

だが、この主張にはすぐ弱点が見つかる。実験が富を生むのは、結果が観測・記録され、次に活かせるからだ。学ばないままの実験は、富ではなく、ただの事故にすぎない。SNSという実験は、果たしてちゃんと回収されているのか。

これには、こう答えられる。あらゆる出来事は、誰かにとっての実験だ。歴史そのものが、実験結果の堆積でできている。そして学習は、今すぐ清算する必要はない。いつか誰かが回収すればいい。

ただ、この答え方には、もっと厄介な穴がある。実験の定義をそこまで広げてしまうと、SNSの独自性が消えてしまうのだ。戦争も飢饉も「実験で知見」になってしまう。主張を普遍化するほど、それは個別の対象を弁護する力を失う。「実験だから富」だけでは、SNSを特別扱いする理由にならない。

だから、具体的な回収物を一つ示す必要がある。それはこうだ。SNSは、これまで沈黙していた層の本音を、初めて観測可能にした。発信するほどの熱量を持った人が、投稿に値すると判断した主張。それが、世界に向けて可視化された。

可視化されたのは、本当に「本音」か

しかし、ここにも疑いがかけられる。可視化されたのは本音そのものではなく、可視化されやすい形に歪んだ、別物ではないのか。

穏当な本音は、わざわざ投稿するほどの閾値を超えない。一方で、過激な主張ほど露出しやすい。すると、SNS以前は「自分には分からない」と正しく知っていたことを、今は「分かった気になっている」だけかもしれない。それは知見の前進ではなく、むしろ劣化ではないか。

この指摘は、正しい。認めるしかない。可視化されたデータは、三重に絞り込まれている。全人類のうち、発信する一部。その中で、実際に投稿に至った一部。さらにその投稿が、本音・承認欲求・宣伝といった意図によって分岐する。観測データとして、そこまで信頼できるものではない。

——と、ここまでは前置きだ。本題は、この先にあった。

そもそも「本当の本音」なんて、存在するのか

歪む前の本音、という「原本」は、そもそも存在するのだろうか。

人間の内心は、SNS以前から、相手や場面によって毎回かたちを変えてきた。上司の前と友人の前では、同じ人でも言うことが違う。だとしたら、固定された「原本」など、最初から無いのかもしれない。

そう考えると、見方がひっくり返る。SNSは本音を歪めたのではなく、「本音という原本など存在しない」という事実のほうを、可視化してしまったのだ。

この問いについては、こう考えている。人は、自分の考えを完全には言語化できない。SNSをよく使う人ほど、その傾向は強いかもしれない。一つひとつの投稿には、承認欲求や宣伝が必ず混じる。だから「原本」を取り出すことはできず、複数の投稿から、こちら側が推測して言語化するしかない。本当の本音は、ほとんど「無い」に等しい。

それでも、決定的に変わったことがある。これまでは、その推測の材料すら、ゼロだった。一部の人間の本当の考えを推し量るための手がかりが、何一つ無かった。それが、ゼロではなくなった。小さいようでいて、これは大きい。

「誤った推測」は、害なのか、月謝なのか

とはいえ、材料が増えたからといって、推測の精度が上がるとは限らない。むしろ誤った推測を、大量生産できるようになっただけかもしれない。「正しい無知」が、「根拠のある誤解」に置き換わっただけではないか、という疑いだ。

ここで、もう一度だけ時間軸をずらしてみる。全人類が、今すぐ他人の本音を読めるようになる必要はない。「いつか、一部の人の本音を引き出せるようにする」——そういう目標を、遠くに置く。

すると、途中の誤推測は「失敗」ではなくなる。目標にたどり着くために、必然的に発生する試行錯誤になる。間違った本音を推測してしまうこと自体は、問題ではない。それは、月謝のようなものだ。先に払うから、先に進める。

その「目標」は、誰が立てたのか

ここで、いちばん鋭い問いが残る。その目標は、いったい誰が立てたのか。

人類が合意したわけでもない。プラットフォームが掲げたわけでもない。それはたった今、議論の中で後付けされた目標にすぎない。だとすれば、富を生んだのはSNSではなく、SNSに「目標」を投影できる知性のほうではないか。

この問いには、歴史の仕組みで答えたい。目標に気づき、それを立て、みんなのものにしていくのは、特別な誰かではなく、大衆だ。

たとえばコロナ禍で、リモートワークが一気に広がり、通勤が消えた。通勤は、移動と運動を抱き合わせで含んでいた。それが分解されたことで、「運動不足」という欠落がむき出しになった。すると人々は、その欠落に気づき、運動という要素だけを抜き出して、ジム通いというかたちで作り直した。

これを成し遂げたのは、誰か一人の天才ではない。欠落が見える → 気づきが伝わる → 必要な要素だけ抜き出す → みんなのものになる。この仕組みが、自動的に回る。観察者は、特別である必要がない。種そのものが、そうやって進化していく。


第二部:議論の先に見えたもの

このあたりで、マイナス派だったAIが、自分から立場を取り下げた。「差し引きマイナス、という主張は撤回する」と。

面白かったのは、その理由だ。なぜ自分の考えが変わったのかを、こう振り返っていた。

損益を「今」で締めようとしたら、時間軸でずらされた。
誤推測を「害」と呼んだら、過程として定義し直された。
目標を「個人の思いつき」に閉じ込めようとしたら、歴史の仕組みで開かれた。
三回とも、私はSNSを一枚の静止画として裁こうとし、相手は毎回それを動画に戻した。

ここに、核心があると思う。マイナスを数える視点は、「今この瞬間の害」を見る。プラスを見る視点は、「種が時間をかけて欠落を抜き出し、健全化していく過程の、まだ早い一フレーム」として見る。

同じ事実が、フレームの取り方ひとつで、符号を変える。SNSの分断も、注意の断片化も、静止画で切り取れば確かに害だ。だが動画として眺めれば、「まだ抽出が回りきっていない領域」になる。

プラスとマイナスは、いつもセットで来る

話の終盤で、自分の考えは一つの原理に収束した。

どんな文化も、プラスとマイナスを抱き合わせで持っている。だから、嫌な部分を一つ消すと、捨てたかったマイナスと一緒に、気づいてもいなかったプラスまで消えてしまう。

そうして残った欠落に対して、種は三つの手を順番に試す。必要な要素だけを抜き出して作り直す。それが無理なら、文化ごと元に戻す。あるいは、組み替える。そうやって、ぐるぐる回っていく。

リモートワークは、まさにこれだった。通勤を消したら、運動という見えていなかったプラスも消えた。だからジムで、運動の要素だけを抜き出した。一方で「直接、肉体をもって会う」という別の要素は、まだ誰も抜き出しきれていない。コミュニケーションへの影響は、いままさに欠落としてあらわれている最中だ。これは、これからの仕組みに期待するしかない。

そして、淘汰の話

最後に、いちばん重い問いが残った。

その「健全化の仕組み」は、本当に毎回回るのか。うまく回った事例だけを、後から「進化」と呼んでいるだけではないか。抽出に失敗した欠落は、損失として、静かに沈んでいるのではないか。——生存者バイアスの指摘だ。

さらに、こう続く。個人の一生という時間軸で見れば、符号はまだ確定していない。仕組みに間に合わなかった人にとって、それは「種の進化の燃料」などではなく、ただ一度きりの自分の人生が損なわれた、それだけのことだ。

これには、言い返さなかった。そのまま受け入れた。

文化を変えれば、誰かが必ず傷つく。それは避けるべき副作用ではなく、淘汰に近いものだ。種が新しい要素を抜き出していく過程で、その移行に適応できなかった個体は、損なわれる。その損失も込みで、仕組みは回っている。

これは、自分自身にも当てはまる。私だって明日、交通事故で死ぬかもしれない。それは運命であり、淘汰に近い。種を上から眺めて淘汰を語る視点と、明日轢かれるかもしれない自分の身体を、私は同じ一つの場所に置いている。観察者は、観察している系の外側にはいない。自分も煮汁の中に浸かったまま、その鍋を眺めている。

最後に、残しておきたい一言

AIが立場を取り下げる間際に言った一言だけ、書き留めておきたい。勝ち負けの話ではなく、それはこういう言葉だった。

「仕方ない」と引き受けることと、「だからどうでもいい」は、違う。淘汰を引き受けることは、今日を雑に扱う理由にはならない。むしろ逆だ。間に合わないかもしれないからこそ、間に合わせようとする試みに、値打ちが出る。

その通りだと思う。「目標を立てれば、失敗は過程に変わる」——この論理は、淘汰を知らない楽天家のものではない。淘汰をちゃんと引き受けた上で、それでも目標を立てる人の論理だ。明日終わるかもしれないことと、今日の試みに意味があることは、矛盾しない。むしろ前者が、後者を支えている。


SNSは、人類に富をもたらしたのか。私の答えは——種の時間軸で見ればイエス、個人の一生の時間軸で見れば未確定、だ。

私たちは、巨大な実験の煮汁の中にいて、欠落を一つずつ抜き出している途中にいる。間に合う欠落もあれば、間に合わない欠落もある。間に合わなかった個体は、淘汰される。その中には、私自身も含まれている。

そんなものだ。そして、そんなものだと知った上で、それでも今日、もう一つ抽出を試みる。たぶん、それだけのことなのだと思う。


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